「信を培うには気迫が必要」

「やめさせても、信を失わないのがお前の仕事だろ?」

とある会社(仮にA社とします)で社長と研究開発担当役員が協議していた時に、社長が役員に対してこう言いました。数年前の話です。

どうしてそのような発言になったのか、少し説明させて頂きます。私とA社とは既に長い付き合いがありました。そのA社の役員にとって、彼が担当する研究開発部門から出てきたボトムアップテーマで成功することは積年の夢でした。研究開発部門からは新規テーマが出ないことを上層部から以前から指摘され続けていたので、その役員は様々な工夫を凝らしてボトムアップテーマを自分の部下達から出させようとしていたのです。

私はその支援をしてきいて、ここ数年確かにその芽が出始めててきて、ボトムアップのテーマに予算をつけて、いよいよサンプルワーク(試作品の提供)ができそうだという状況になっていました。

一般的にこのような状況では営業部門の協力が不可欠ですが、営業部門は協力してくれませんでした。なぜならこのテーマが既存事業とは畑が違っており、既存顧客に対してサンプル提供してヒアリングをすれば良い物ではなかったからです。

研究開発部門としては「営業が引き取ってくれない」と不満を言いたいところですが、営業部門からしたら「そんなことに協力する暇はない」と反論したくなることでしょう。このような状況はA社に限らずどこにでもよくある話です。

そうこうしている間に時は過ぎ、「テーマの進捗が遅く予定している期間で事業にならない」という話になっていきました。テーマを発案した技術者としては苦しい一方で、事業とは畑違いなわけですから、苦しむことははじめから分かっていたテーマではあったわけです。

数ヶ月経過してもテーマに進捗がなく、進捗報告で報告されるネタもやや苦し紛れに「進んでいます」とアピールするような状況が続いていました。

担当役員から見れば、やっと出たボトムアップテーマですし、部下の技術者に続けさせたい気持ちはあっただろうと思います。ただ、研究開発の結果がでなくても良いことだとは、もちろん思ってはいないわけです。自らの責任と部下への思い。その狭間で心は揺れ動き、責任ある立場ゆえ悩みは深くなっていきます。

A社では、通常は役員主催の開発会議が行われます。ある時社長が参加されました。開発会議では技術者からの報告を黙って聞いていた社長は、会議終了後に役員と会合を持ちました。

社長はこう切り出しました。

「あのテーマについてはどれ位続いてる?」

「もう1年くらい実質的な進捗がない状態です。」役員が答えます。

「どう考えてる?」と社長が問うと、

「良い状態だとは思っていません。ただ、社長が言われたように、ボトムアップで出してきたテーマなので続けさせています」役員はこう答えました。

私には、このやりとりで引っかかるものがありました。この役員の言葉には、「社長が言ったからやってます」という意味合いの、どこか責任転嫁したようなところが感じ取れたからです。

確かに、数年前の社長の要望はボトムアップ型のテーマ創出だったのかも知れませんが、役員が「社長が言うからやっている」というのは、首をかしげたくなる話です。

「うまくいかないならやめさせても良いんじゃないか?」と社長が続けると、役員はこう答えました。

「ボトムアップは私が言って始めさせたのですから、今さらやめるのは、、、」

そして、冒頭の社長の言葉になった訳です。

「やめさせても、信を失わないのがお前の仕事だろ?」と、社長はやや声を荒げて言いました。

信とは何か?

役員が言いたかったのは、「自分が言って始めさせたことを今になって曲げては、自分の言葉を(部下が)信用してくれなくなる」ということだったでしょう。

しかし、社長は違いました。「自分の役職に備わった権威や命令で信を培うのではなく、もっと深い人間的な部分で信を培わなければならない」ということがその言葉からは感じられました。

社長は役員の目を見ていました。役員は痛いところを突かれたと感じたのでしょう。頬はやや紅潮して声がうわずっていました。

このコラムは、数年前のエピソードを思い起こしながら書いているのですが、社長は「信」と言う言葉を使いました。辞書によれば、信には「ウソをつかないこと」、という意味があるそうです。この意味に従って解釈すると、役員はやめさせればウソをつくことになると言い、社長はやめさせてもウソにはならない、と言ったのです。どちらも言葉の意味としては正しいように思います。

ただ、少し意地悪な言い方ですが、この役員は自分の権力と言葉で信用を得ようとしていたのかも知れません。もちろん、そうしようという悪意はなかったでしょう。しかし、人に与えられた権威でしか仕事をしたことがないのであれば、この役員のような言動になることは仕方がありません。

社長はそういう役員をたしなめた、と言えると思います。部下にテーマをやめさせて信を失うようであれば本当の意味でリーダーとは言えないということを指摘したのです。自分で権威を持つ代わりに全責任を負うという気迫で仕事をしていれば、この役員のような言動にはならないものです。

社長の反省

A社長は後日、懇親会の際に、その時のことを振り返って私に言いました。

「あのときはお恥ずかしいところをお見せしました。まだまだ部下の育成能力が足りないようです。」と。

普通、「上司が言ったから」とか、「上の命令だから」と部下が言うのでは、上としては頼りなく思うものだと思います。しかし、社長の言葉には、そうした見方しかできない部下を育成しているのは、まぎれもなく自分自身であるということを認めた意味合いがありました。

A社長の全責任を認めた発言には大変な気迫を感じました。A社長が怖いという意味ではありません。むしろとても温厚な方です。しかし、その強い責任感は行動を支配し、一挙手一投足にまで及んで周囲には気迫として伝わると感じました。

その後人事異動でその役員は別の部門へ異動されました。その後もA社と私の仕事は続いていますが、A社は業績を伸ばしています。テーマ設定の方法や仕組みをチューニングし、コンサルタントとして他社と比較できる立場から見れば、A社は最も革新的な会社になっています。上記のような状況が来ることは、今後はないでしょうが、新任の役員はきっとA社長と責任感のイメージを共有していることでしょう。

自分が権威を持つ代わりに全責任を負う。そういう責任感で仕事をすることが経営者には求められます。このような経営者の立場は誰もが遂行できるものではありません。また、それが嫌で経営者になんてなりたくないと思う方もおられるでしょう。

しかし、オーナー企業経営者なら避けられない役職ですし、サラリーマンでも昇進して責任ある立場になることは多くの人が経験することではないかと思います。一旦その立場に着いたのであれば、全力を注ぎ込まなければならないと思います。

現経営者であればその立場で全力を尽くし、次世代経営者であれば、その準備をするのが天命を全うすることにつながるのです。

あなたはその準備をしていますか?

この記事は日経テクノロジーで連載しているものです。

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